おめでとうの意味
あけました。
昨年は数人の知人が、突然亡くなってしまいました。
40代。日常生活の中での、突然の。
「あけましておめでとう」
の、おめでとう感がいまいちピンと来ないまま40目前まできてしまったけれど、今年はなんだか少しわかる気がする。
あけましておめでとう。
あなたも、わたしも。
今日生きているから言えるし、今日生きているからそれを受け取れる。
あけまして、おめでとう。
新しい年が来ました。
もう4日だけど、来たことは素直によろこぼう。
普段は意識せずに過ぎてしまう1日を、わざわざ「おめでとう」なんて言う日にして、生きているわたしたちおめでとう。
生きていられることにおめでとう。
願わくば来年も、こうしておめでとうを言い合いたい。
出来ればあの人にも、このおめでとうの日を過ごしてほしかった。
叶わないおめでとうも忘れずに思い出す、1日のための「あけましておめでとう」。
たなくじもよかったし、良い年にしよう。
頭の中身を出す
毎日ブログを書いている。頭の中で。
あまりにも、毎日書いているから、本当に書いている気がしていてここを見てびっくりすることがしばしばある。
今日もびっくりした。
頭の中で、あの話を書こうとか、この話書いたっけな?とか思うレベルじゃなく、ここに今こうして書いている文章と同じように「文章で書いている」ので、すっかり書いたものだと思ってしまう。
頭の中の言葉を画面に出せる機能まだですか?
要は行動に落とし込めていないということ。
ブログは仕事じゃないから、自分の生活の中でその時間を作らなきゃいけない。
通勤中、歩きながら?
ご飯の支度しながら?
娘を寝かしつけながら?
(ここで寝てしまうこと多々なので、寝かしつけ前にしなくては)
朝早く起きて?
…やっぱり早起き?
寒くなってきましたね。お布団から出られません。
言葉をたいせつに
コンビニのイートインスペースで、紅鮭のおむすびと、インスタントのフォーを食べている。
米と麺を選んだつもりだったけれど、どっちも米だった。
昨日の今日のダーリンがとても良かった。
今日の今日のダーリンもとても良い。
今日のダーリンというのは、ほぼ日刊イトイ新聞で糸井重里さんが毎日更新している短いコラムというか、手紙というか、そういうものだ。
毎日読もうと思って読んでみたら、やっぱりとても好きな文章に出会えちゃう。
なんでしばらく読んでなかったのかなとチラリとよぎって、そんなことはまあどうでもいいなと思う。
昨日の今日のダーリンはもう消えてしまっているから見られないのだけど(毎日更新したら前のは消えてしまう)、言葉はたいせつに扱わないとなんとかって内容だった。
一番肝心のなんとかの部分を忘れてしまって、今そこに当てはまる自分の言葉を考えている。
そうやって考えたことって実は自分の考えのようで人からの受け売りだったりする。
例えば、ここで私が思いついた「なんとか」は、昨日の今日のダーリンに書いてあった言葉かもしれない。