みずたま色の空

こどもやごはんや日々のこと。

暖かいものを編みたい季節

また来た。

寒い季節が。

まただ。

編みたい欲求が。

 

気づくのがいつも遅くて、寒いから編みたいと思って始めると編み終わるのは春。

うららかになってきた頃。

 

毎年同じことを繰り返してしまう秋を今年も過ごしている。

 

さて、何を編もうかなぁ。

暖かい毛糸のブランケットを編みたいなぁ。

 

 

娘がお腹にいた時に編んだ綿のブランケットは、赤ちゃんのときにしか使えないと思っていたけれど意外と使えて今も毎晩布団を蹴飛ばして寝る娘のお腹を包んでいる。

娘はどういうわけか布団や毛布やガーゼケットはこれでもかと蹴飛ばしてしまうのに、ブランケットだけは蹴飛ばさないのだ。

 

「わたしの」

 

って思っている。

 

そういう存在になる毛糸のブランケットを編みたいなぁ。

 

 

そういえば3歳半の娘、最近は

「わたしはね」

などと、自分を私と呼ぶ。

そしてやたらと母と自分をセットにして、

「わたしたちはね」

と意見を述べている。

 

わたしって、こんな小さいうちから使う言葉だったのかなぁ。

育児は生産性のない活動なのか

育児は生産性のない活動なのか。

仕事とは呼べないものなのか。

仕事とは呼びたくないものなのか。

ただ消費するものか。

何も生み出さないのか。

企業に務めることは仕事と呼べて、子供といることは怠慢なのか。

子供のそばにいたいというのはただのワガママか。

子供をひとりぼっちにさせたくないというのは傲慢か。

外で働くことはそれだけで子育てを凌駕する価値があるのか。

夜咳き込む子供の背中をさすり睡眠不足になって思い体をひきずり働きに出る。外貨稼ぎが全てなのか。

自分の体と仕事と育児のバランスを考えたいというのは絵に書いた餅なのか。

 

私が子供を孤独にしたくないのは、私が孤独を感じるからかもしれない。

世界にパタンと扉を閉じてしまいたい。

 

ずっと一緒にいたいと言って手をぎゅっと握る娘の、今この時にしか出来ない時間を満たすことを大切にしたい。

それが出来ないこの数年を、一生心の汚泥としてため続け、いつかそれは溢れるだろう。

 

この悔しさを

踏み台になど

するものか

フクロウの声が聞こえる

今月のMステでやっていた、オザケンセカオワのコラボ曲「フクロウの声が聞こえる」。

これがすごくよくて、身の毛がよだつほどの衝撃で、最近ヘビロテしている。

 

 

ところでオザケンセカオワの…とか書いたけど、本当は略して表現するのはあまり好きじゃないから、小沢健二SEKAI NO OWARIのコラボレーション曲、といいたい。

 

 

この曲の良さを表現するのは難しい。自分の中で言語化出来ていないから。

言語化なんてしなくてもいいじゃないかと聞こえるから、アレコレ考えずにただ聞く。

それでいいし、そうしているとぐるぐると頭にも体にも何かが渦巻いていくのを感じられて心地よい。

 

 

久しぶりのブログ。

書くことはやっぱり続けていくことが大切だなと思って書いてみた。

書くことを止めていると、思考も止まる気がする。

書くことを止めて、思考が止まると、行動も止まって、息が止まる。

 

書くことは生きていることだった。私には。

 

きっと泳ぐことが生きていることな人もいるし、笑うことが生きていることな人もいる。批判することが生きていることな人もいて、涙を流すことが生きていることな人もいる。

 

私は書くことが生きていることだ。