みずたま色の空

こどもやごはんや日々のこと。

娘が私のところに来た理由

胎内記憶とか、お腹にやってくる前の記憶とか、あるなら聞いてみたくて仕方がない私。娘が言うなら信じられそう。

 

しかしこの手の話は、

 

  • こっちから聞き出しちゃいけない
  • 話を深堀りしちゃいけない
  • 子供が話をそらしたらもうそれ以上話さない

 

など、割とデリケートに聞かなくてはいけないらしい。

そしてその記憶があるのは3・4歳くらいまでのようだ。ほんとかどうか知らないが。

 

もし聞くとしても、ちゃんと文章で話せるようになってからじゃないと、せっかく子供が話してくれてもチンプンカンプンで終わってしまう。

タイミングが大事らしい。

 

こちらから聞いても、子供はわざと話をそらしたり、その話はしたくないと言ったり、とにかく話さないようにする傾向もあるらしい。

 

こういう話は胎内記憶研究などで有名な池川明先生の本や、同先生が出演している『かみさまとのやくそく』というドキュメンタリー映画を見て知った。ちなみに本の中身も映画の中身も知らずに読んだり見たりしたので、胎内記憶について調べまくったわけではない。

ただ、それらを見てすごく大切なことは学んだ。それは最後に。

 

 

さて、聞いちゃだめだ、聞いちゃだめだ…と思いつつ、聞きたくて仕方のない私は昨夜娘に聞いてしまった。娘が話してくれないだろうなということは大体予想がついていた。娘はその手の話題を、わかっていて避けている感じがしたから。

 

 そもそも私は娘の寝かしつけのときに、娘がまだ話せない赤ちゃんのときから、

「大好きだよ。お母さんのところに来てくれてありがとう。モモが来てくれただけで、お母さんは幸せなんだよ。ありがとう」

と声をかけてきた。

娘が愛されてることを感じて自己肯定感を得られるようにという意味で「大好きだよ、ありがとう」を伝えている。

それともう一つ、池川明先生の調査によると、胎内記憶とか胎内より前の記憶があると話す子どもたちの多くが「お母さんを幸せにするために生まれてきた」と言うのだそうだ。

映画『かみさまとのやくそく』の中でも、子供達が口々に「前に生まれたとき悪いことをしてしまった(自殺など)から、今回はお母さんを幸せにするために生まれてきた。今回幸せに出来たら、次生まれるときは自分が幸せになるように生きていい」というような話をするのだった。

これは結構興味深くて、彼らの発言を疑っても仕方ないからまあそういう考えもあるのかもしれないと受け止めて、それなら娘には、自分が幸せになる人生を生きてほしいと思った。 

だから私は寝る前に、あなたがいるだけでお母さんはもう十分幸せだからねと伝えている。

 

それは自己満足に過ぎないのだけれど、面白いことがひとつある。

 

「幸せだよ、ありがとう」

と言うと、娘はまだ話せない赤ちゃんの頃から、抱っこの腕の中で顔を上げて私を見上げ、にっこりと微笑むのだった。

その言葉のときだけ、決まって微笑んでくれた。何かしら通じているような気がして嬉しかった。

 

毎日言うわけではないが習慣になっているので、今では娘も

「モモもしあわせだよ ありがとう」

と言ってくれたりする。

 

さて、聞きたくて仕方がない私は娘に

「モモはどうしてお母さんのところに来たの?」

と聞いてみた。はぐらかされるだろうなと思ったら、照れたようにモジモジして私の胸に顔を押し当てながらこう答えてくれた。

 

「あのね、おかあさんいないなーっておもって、しんぱいになっちゃって、ここにきたの」

 

「ここってどこ?」と聞いてみたら、私のお腹をトントンと叩いた。

「お腹に来たの?」と聞くと、胸に顔を押し当てたまま頷いた。

 

「どこから来たの?」と更に聞いてみたら、

 

「おなかのなかだよ」

 

だって。

 

それ以上は恥ずかしそうだから聞くのをやめて、ギューっとしながら寝ることにした。

 

 

3歳ともなると、色々知恵を働かせて話をするし、娘は毎日架空の物語をつらつらと話しているので想像力も創造力も豊かそうだから、この話も彼女の思いつきである可能性は高い。だけど、せっかく話してくれたので、娘がそう言うならそうなのだろうと思った。

お母さんいないなと思って、探してやってきたのかな…と。

 

映画『かみさまとのやくそく』の中には、前世の記憶をハッキリと持って生まれてきたため現世で生きにくくなった子供と親の話も出てくる。前世で苦しかった、辛かった、悲しかった記憶がフラッシュバックして泣き出す息子を、お母さんは「なぜこの子はこんなに泣くのだろう。この子は何が怖いのだろう」と疑問に思いながらも受け止めて、やがて色々な要素をつないで「前世でとても苦しい思いをした」ことに辿り着いた。その子の場合、その子の話と怖がるもの、たまたまお母さんがテレビで見た昔の映像、それらが繋がったから前世のことまで予測できた。有名な、迫害の末に大量虐殺されたあの中に、息子の前世の人がいたのだと。

 

それがわかって、というかそうだろうとお母さんが予想して、息子がおかしいのではなく息子に現世では安心して生きてほしいと思うようになれた。お母さんが受け止めてくれたことで、息子さんは徐々に落ち着いて、フラッシュバックも少なくなってきたという話だった。

 

あの映画を見て良かったと思うことは、子供の言葉を受け止めるということ。

うちの子おかしいのじゃないかしら、

こんなこと言うなんて気持ち悪い。

多分、前世だとか胎内記憶とか、子供が口にした時にこう思う親は多いだろう。

それが嘘でもホントでもなんでもよくて、子供が自分に話してくれたことが大切で、子供を否定せずに受け止めることがとても大切なのだと思った。

あの子も、お母さんが受け止めてくれなければ「おかしな子」として現世でも迫害されたかもしれない。

私はスピ系の人ではないので前世とか「はぁ、そうですか」程度の関心しかないが、映画に出てきたあの子の話はとても説得力があって興味深かった。親子の関係性の作り方も勉強になった。

 

スピ系が苦手な人にはゾワゾワしちゃう内容盛り沢山な映画だけど、親子関係や心の育ち方という点では非常に興味深いので良かったら見てみてください。私はゾワゾワしたけど、勉強になることもあって見てよかったです。

娘の言葉を受け止める気持ちもドンっと持てたと思うから。ま、スピ系な話はほぼしないけどね。

 

またお久しぶりになる

そうか、いつの間にか前の投稿から約1ヶ月も経っていたわけですね。今この記事を書こうとして初めて気がつく。時間の過ぎる速度と頭の中と気持ちが全部一致していない。

 

さて、このブログを書いていなかった間に何があったかを簡単に書いておく。自分の覚書として。

 

  • 携帯をソフトバンクから楽天モバイルに変えた
  • 持病の主治医から新しい薬を試す提案をされた
  • GW静岡に行った
  • GW半ばから体調不良スタート
  • 娘が幼稚園行きたくないと言い出した
  • 娘が毎朝幼稚園入口で泣くようになった
  • 自宅の体組成計で急に2キロ以上体重が増えてショックを受けた
  • しかし温泉の脱衣所で体重計に乗ったら体重は変わっていなくて体組成計の故障が疑われた
  • 流行りのエムグラムをやったら『高すぎるスルースキル』と出て斬新だなと思った
  • フランスでは夕食の準備が簡単にできるというコラムを読んで衝撃を受けた
  • "フランス人は10着しか服を持たない"の著書によるTEDスピーチを読んで「これぞ私のやりたいこと」(服の持ち方について)と衝撃を受けた
  • ヨーロッパ諸国では台ふきんを使わずにセルロースを使用するという記事を読んで合理的な生活をしたいと考えた
  • GW明けの体調不良が治まってきたと思ったらまた別の体調不良で悩まされている
  • やりたいことがいくつもあるが生活の中でやる時間を見つけられずみぞみぞしている(使い方これで合ってるのだろうか) 
  • 一人の時間は娘が寝ている間だけなのに娘と一緒に寝て起きるから結局時間はなく毎朝その現実に打ちひしがれている

ただただ悲しいことがあったなら私はきっと川に来る

通勤電車の中、普段はスマートフォンで何かを漫然と見ていることが多い。

だけど1ヶ所、とても好きな景色があって、そこを通るときは顔を上げて外を見る。


そこには大きな川があり、川の向こうに山がある。

水はゆるやかに流れている。

雨が降れば濁った濁流になり、穏やかな気候が続けば空を写してそこにある。


川が好きだ。

子供の頃から川はそばにあった。

小学校へは大きな橋を渡って通っていた。毎日見る川だった。

休みの日には山の小さな川辺で遊んだりもした。巨大な鹿が川沿いで死んでいたことをハッキリと覚えている。
夏の暑い日だったが川の周りは木陰で涼しく、鹿は少し下流の川辺に横たわっていた。

小学校の裏山には細い細い小川があって、石をどかすと沢蟹がいた。友達とワイワイ言いながら沢蟹を探して小川を遡った。


中学校は川のすぐ横にあって、大嫌いなマラソンや体力作りのジョギングは土手を走った。嫌で嫌で仕方なかった。

夏には花火大会が川で行われ、水面に火花が映った。


高専の3年生くらいのとき、専門科の授業でOB訪問があった。土建業で勤める卒業生を訪ねて、その人が担当している現場を見学した。

連れて行かれたのは工事中の川だった。

川底から護岸まで工事中のその川はすでに水が流れており、コンクリートでガチガチではなく、大小の石が配された一見自然な川だった。少なくとも私には作られた川には見えなかった。

自然に見えるその川は、災害が起きぬよう設計され、川の流れ、流れの緩急、動植物の生態、地域住民の暮らし、そういうものが考えられた上で作られていた。

石の配置は川の流れと魚の居場所を作る。川底にも魚の住処になる大きな石の入ったカゴが設置されている。子供が遊べる浅瀬がある。植物が根をはる護岸がある。

自然に見える川が、実は綿密に設計されて作られていたなんて!!

その衝撃は高専時代で一番と言っても過言ではなく、水理学は苦手なのに水理の研究室を卒研に選んだほどであった。

そして就職活動でも、河川に関わりたくて、河川関連の仕事をいくつか受けたのだった。受からなかったのだけど。


川が好きになると、橋も好きになった。

その2つを見ると、とても心が落ち着く。安らぐ。

疲れもすうっと抜けていく。


通勤電車の中、窓の外を見るたびに、ただただ悲しいことがあったなら、私はきっと川に来るなと思うのだった。