憧れのあの人に
娘が風邪をひいた週末。
昨日は私も朝から喉が怪しくて、これは早めに手を打たねばと思った。
葛根湯は飲んでおくとして、それはまあ気休めみたいな気つけみたいなものという位置付けで捉えているから、ひとまずお湯を沸かす。
その傍で大根を拍子切りにしてタッパーに入れ、そこにアカシアはちみつをたっぷりと、天然塩をひとつまみ入れる。蓋をして軽く振って大根にはちみつを絡ませ、あとは置いておくだけ。
しばらくすると大根からエキスが出てきてはちみつと溶け合う。それをそのままなめたり、白湯で割ったりして飲むと、喉の痛みが軽減されるのだ。のど風邪をひくと毎回作る定番の薬。
お湯が沸いたのでティーポットに三年番茶を入れお湯を注ぐ。
アデリアのルックコーラグラスにお茶を注いで、ふと手を止めた。
“そういえば、本当はここに梅干を入れるといいって言ってたなぁ。梅干は苦手なんだけど、風邪薬と思ってやってみるか。”
今まで絶対やらなかった番茶+梅干に初めて挑戦。
梅干は苦手過ぎて買わないけれど、以前料理に使おうと思って買った練り梅ならある。小さじ半分くらいの練り梅をグラスに落として、そっとかき混ぜた。
梅干の酸味は番茶に溶けて柔らぎ、そのお茶はとても美味しかった。予想外の美味しさに驚きつつ、もっと早く試してみればよかったなと思う。
「え?梅干苦手なの?もったいないね〜美味しいのに!うちは毎年漬けるのよ。家で作る梅干が一番美味しいの。番茶に梅干を入れて飲むと風邪にもいいのよ」
そう言っていた、はつらつとした美しいあの人に初めて会ったのは7・8年前だっただろうか。
今はもうない、毎月ゾロ目の日に開催されていた講演会&立食パーティーに私が参加しはじめたのは28歳くらいの時だった。20代で参加している人は珍しく、仕事絡みで参加する人が多い中で仕事絡みでもなく個人的に参加していたものだから若干浮き気味だった私。
立食パーティーの後二次会まで行くと人数はグッと少なくなり、何度か行くうちになんとなくよく顔を合わせる人たちになってきて、話し相手も増えてきた。
その二次会に彼女が時々いた。
二次会は薄暗いバーで、グランドピアノが入り口にあった。
彼女は長い髪にぴたっと体に沿うワンピースを着ていて、アーチ型の眉毛の下にある眼差しは色っぽく美しかった。
初めて見たときからすっかり心奪われて、なんてキレイな人なんだろうと惚れ惚れした。
大人の女とはまさにこの人だ!
30代半ばの彼女は悠々としていて何をしている人なのかわからず、それもまた魅力の一つだった。仕事の一つは知っていたけど、それが本業ではないだろうと感じた。
彼女にはもっと違う、もっとやりたいこと、やるに違いないことがあるのだと感じた。
身体から滲んでいた。
数年後、彼女が主催する食のイベントにいくつか参加した。
食への関心が深まったのは彼女のイベントに参加したからで、人は食べたもので出来ていることを改めて考えるキッカケとなった。
イベントで会う彼女は化粧っ気が薄くなり、ワンピースは着ておらず、大人の女のオーラから素が一番のすっぴん系女性へと変わってきていた。
私は大人の女だった彼女が大好きでファンだったので、またあの長い髪とワンピース姿を見たいと思ったけれど、イベントの中で生き方を模索しているように見えた彼女の姿はまた違った美しさで、やっぱり好きなのだった。
お赤飯とすいとんを地元のお母さんたちに教わって作るイベントで、作ったご飯を食べる時に彼女の隣に座った。
小さいお茶碗にほんの僅かのお赤飯を盛り、お漬物や煮物をたくさん取り皿にとって、ポリポリと漬物を食べては小さい口でお赤飯を食べるのだった。
「そんな少しで足りるんですか?」
と聞いたら
「お腹いっぱいは食べないようにしているの。それと炭水化物も抑えていてね。少しでもしっかり噛んで食べているから味がよくわかるしお腹も満たされるんですよ」
と話した。少し痩せた頬と手だった。
その後も素晴らしい講演会イベントなどを主催者されて、仕事でのご活躍ぶりもよく耳に入る人だった。
その講演会に参加したいと思いつつ、時間と費用を理由に参加せずにきた。彼女に会う機会は無くなって、SNSで活躍ぶりを目にしては嬉しく思うのみとなった。
ある時彼女が闘病していることを知った。ベリーショートになった彼女の写真を見た頃に聞いた。
心の中に引っかかりが出来たが、仕事に復帰したような話も聞き、少しホッとして、だけどホッとしきれない自分がいた。
昨日、映画を見ていた。
ある男女の十数年間を、一年毎の変化を見せながら積み重ねて行く物語。
想いながらもすれ違い、時間を重ねて重ねて、やっと2人で生きていくことに決めた、その先で。あっけなく女性は事故死するのだった。
そこまで1時間半以上2人の人生に寄り添って見てきたこちらとしては、そのあっけなさに無情さを感じるのだが、一方でそうなりそうな気配を感じていたので「やっぱりな」とも思うのだった。
その映画を私が観ている途中で夫が帰宅し、女性が事故死するシーンで
「あぁやっぱり!ここまで積み重ねてきたのにあっさり殺すなよなぁ!」
と私が言った机の向かい側で夫の顔が曇った。
「あれ?……Kさん、亡くなったみたいだ」
テレビ画面では女性が事故死した後の、残された人々のストーリーが続いている。
映画の中で人が死んだばかりで、知人の名前が出てもピンとこなかった。
「え?Kさんって、あのKさん?」
「そうそう、あのKさん。昨日亡くなったらしい」
映画は続いていた。
Kさんは20代の私が憧れた、少し年上の大人の女だ。
いつも真剣そうだった。
生きていることに真剣に向き合っていた。
それが病気によるものだったのか、私は知らないけれど、その真剣さは美しかった。
長い間闘病されていたのだろう。闘病という言葉は好きじゃないので、彼女が命と真剣に向き合う時間が終わったのだと受け取った。
今朝もまた、番茶に練り梅を混ぜながら、今度は梅干に挑戦してみようと決めた。
私の憧れの、長い髪でワンピースの裾を美しく翻していたあの人の年に、気づけばなっていた。
食べ物の大切さを教えてくれた。
食べることの大切さを教えてくれた。
女性の生き方を見せてくれた。
伝えることの大切さを教えてくれた。
行動することの大切さを教えてくれた。
生きることの大切さを教えてくれた。
かさいさん、大好き。
ずっと、ずーっと、憧れの人です。
ずっと。ずーっと。
かさいさん 享年43歳
憧れのあなたへ
感謝を述べたいけれど、ありがとうが言えなくて。
ただただずーっと、好きです。
入園準備と退園準備(2人目当然という空気と)
3月末をもって、今入っている保育園を退園し、4月から幼稚園に入る娘。
この移動は全くもって親の勝手であります。
そんな入園退園の準備で、
「持ち物の名前書き(直し)」
をやり始めた。
保育園入園の時点で洋服類をはじめ、持ち物全てに名前は書いてある。しかし度重なる洗濯で流石のお名前ペンも薄れており、中には読めないものもある。そこで持ち物全部の名前チェックと書き直しをしている。
それに合わせて、お世話になった保育園へ少しでもお役に立てばと、娘のサイズアウトした服を寄付することにした。サイズが小さいので未満児の小柄な子にしか使えないとは思うが、我が家にあっても捨てるだけになってしまうので誰かの役にたつといい。
名前を書きながらサイズをチェックして、サイズアウトした服は名前を消す作業を同時進行中。
娘はこれまでに何度も保育園の服で帰ってきたことがある。今月も2・3回は保育園の服で帰ってきた。
おむつがとれてからは1日に2回着替えたりするので、着替えを持たせても使い切ってしまい、保育園の服を着る機会が増えた。
ちょうど同じように着替えが増えるちっちゃい子達のお役に立つとよいなと思いながら、娘の名前を消していく。
保育園の先生に
「娘のサイズアウトした服を寄付してもいいですか?」
と聞いたら、先生は驚いて
「え?こちらはもちろんよろこんで受け取りますが、でもお母さん、いいんですか?まだお家で使う機会が…」
(2人目に使いますよね?という意味)
と言いづらそうに答えた。先々月くらいに、
「お母さん、最近モモちゃん保育園でよく『モモね〜お姉ちゃんになったの〜」って言うんですけど、あってます?」
(実は妊娠中ですか?の意味)
と聞いてきた先生で、
「いや。全くないです」
と私にバッサリ答えられた手前、2人目に使いますよねとははっきり言いにくかったんだと思う。
変に気を使わせてしまい申し訳ないなぁと思いつつ、我が家で今後使うことはないので保育園に寄付したいと話してきた。
私の住む地域は子供が3人いる家庭も多いらしい。2人はいるお家がほとんどの様子で、1人っ子の家は少数派のよう。
娘と同じ歳に産まれた子も、すでに妹や弟がいる子が増えてきた。
こういう環境にいると、
「当然2人目産むよね」
という空気を感じることが多い。直接そう言われることもある。
子供がいないときはあまり気にしていなかったことだけれど、子供が1人いると、それはそれで
「なんで2人目産まないの?」
という、当然でしょ?という顔に書いた人達が現れるのだった。
相手に悪気はないし、そりゃ2人目が産めるなら私だって産みたかった。
だけど世の中、
「当然でしょ?」
なんてものはないのだ。
話は逸れるけど、子供が欲しいけれどなかなかやってきてくれない人はたくさんいるから、毎日のように殺されて死んでいく子供達が少しでも減るように、子供を家族にすることが選択肢の一つとして一般化する社会になればと思う。
子供を育てることはとても責任の重いことで、簡単ではないけれど。
話を戻して、娘の服は我が家に来ない2人目用にとっておいても仕方がなく、誰かの役にたってくれるならそれが一番だと思っている。
トイレトレーニングをはじめる頃の子供サイズで小さいけれど、
「トイレに間に合わなくて失敗しても着替えあるよ!がんばれ!」
という応援を込めて。
行かれないね と言う娘と元図書委員長の私
娘は雨が降っているのを見ると、
「あめふってるから ほーくえん いかれないねぇ。よーちえんも いかれないねぇ。おやすみだねぇ」
と言う。
ほんと、お休みだったらいいのにねぇ。仕事も雨だから行けないってなったらいいのにねぇ。
それはさておき、娘のこの
「行けない」
を
「行かれない」
という言い方を聞いた夫が、
「行かれないって方言でしょ」笑
そう言って笑っていた。
いやいや、ちょっと待って。
行かれないは正しい言葉だよ。文法的には本来は行かれないが正しくて、現在使われている行けないの方が勢力大きくて「行けない」が主流になってるだけだから。
ほら、こんな丁寧な解説もある。
娘が「行かれない」という話し方をしているのは保育園で先生がそう話すからかもしれないし、私がそう言ってるのかもしれない。
「食べれない」は「食べられない」と言うし、私。そういえば娘も。
言葉は人の印象につながる大切なものだから、娘には正しいとはいわなくてもきれいな言葉を使って欲しいなとは思う。
舟を編むという映画を見て、言葉は生き物で時代の中で変化するものだと知った。
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それと、TEDで辞書編集者の方のプレゼンを見て、言葉は変化して良いのだと感じた。この方の言葉への愛は深い。
私の言葉へのこだわりは、多分図書委員長だったことや、図書館に入り浸っている子供だった過去からくるもの。
こだわりも変化してよい。
言葉を大切に使っていきたい。